昭和51年7月1日 朝の御理解


御理解第81節
「氏子十里の坂を九里半登っても、安心してはならんぞ。十里を登りきって向こうへ下りたら、それで安心じゃ。気をゆるめると、すぐに後へもどるぞ」

いよいよ、おおー広がりに広がり。おかげの頂けれる信心の、まあ言うなら第一歩と。十里の坂を九里半登って、もう当時はすぐにすぐに、ううん、これで安心というところに又手前の方へ落ちてしまう、後へ戻ってしまう。向こうへ下りたら、安心じゃと。その安心の第一歩というのは、十里を越えた向こうが、言うならば第一歩である。十里を登るまでがきついのである。だからそのきついところを、登り越えて向こうへ行ったら後は、言うならもう下りばかりである、ね。
 十里の坂というなら、その十里の坂というものを九里半登ってやれやれと言うから、例えば、だらだらとこう戻るようなもんで。それを、もうあと半日というところで登りきって峠へたって、そして向こうへ一歩足を踏み出たら、後は下りばかりである。後は楽なんです。油断さえしなければ、後は楽なんです。信心もね、修行というてもです、やっぱり頂きぬかせてもろうたその向こうは、やっぱり、ええーそんなにきつい修行があるはずがありません。登りきるまでがきついのです。そこん所を大事にしなければいけません。
 今日私はこの御理解第81節というところを頂いて、そんなふうに感じるのです。81と書いて、ね、8は広がりに広がる、それにプラスしていく。その言うならば、第一歩というのは、峠を越えた向こうへ一歩足を踏み出た時に、始めてそこから楽な信心が、言うなら向こうへ下りるまで、喜び、安心の度合いはいよいよつも積り、おかげは広がりに広がっていくおかげになっていくのです。その、本当にもうそこそこに峠を見て、そしてその辺でやれやれという、それがやはり本当のおかげにならないにしまえにならんという感じがいたします。
 昨日、ええー(やぶ祭?)の終わりました、後で、もう汗びっしょりになっておりましたから、あのシャワーを頂いて、そしてゆかたに、ゆかたに替えさせてもらおうと思ってましたら、かなえが(奉仕?)を持って来ました。ところがもう、休ませて頂こうと思いよるとにから、そげなん事あんた言うちから、金光様は御大祭が済まっしゃたら、もう、すぐ又御結界につきなさるですよっち(笑)。そりゃほんなこんですもんね。もう御大祭時なんかお参りします、本当にあれだけのお祭りを仕えになります、そしてお広前に来るともうちゃんと座ってなされますもんね。三代様もそうです、もちろんでしたが、四代様もそれを実行なさっておられます、ね。
 お祭りが済んだ、やれやれ、これが私はお祭りが済んだからもう峠を越えたように思うておる。そうじゃないんです。お祭りが済んだその時点から、もうその次の私は、その言うならば姿勢というものがね、大事です。(?)っちゆうてから、又黒衣をつけてここに、こちらへ出させてもらいましたですけれども。ううん、その辺のところを「やれやれ」と言われておるようですね。確かに、(?はかま)をつけてこちらへ出てくると後はもう楽です、ね。
 昨日は月末御礼会ですから夜の御祈念の終わった後に、神様にお礼を申させてもろうて、ええーおかげを頂きました。やっぱり、ええーいつものように、の顔ぶれが、ああーちょっとそろうておられる。ええー善導寺の原さんや、(?さん)光昭先生あたり皆、言えば、あのお祭りを頂いて、そして道を帰らせて頂いてから、それから又出てきておられる訳です。もう今日は朝もお参りをするし、昼はああいうお祭りを頂いたし、もう今夜はご無礼しとこうと、っというようなものではなくて、そこんところをもう一歩出たら、ハ~後はですね、同時にする。ああーおかげ落とさんでよかったと(影響するでしょうが?)。
 何人かは、もうこりゃー絶対必ず御礼神話会に出てくるという人達は、何人かは顔が見えませんでした。おそらく、やはりお祭りでやれやれというところにあるのじゃないでしょうか、ね。もうお祭りを頂いたからそれで、よいというのじゃない、その後を大事にするところが私は、81節だと思うのですね。只今修行中という、言わば、ね、看板をかかげておる時ですから、もう油断のあってはなりません。
 昨日も私は、なら、ああーかなえから言われんならば、ね、もうお風呂頂いてゆかたにでも替えて、それこそもう、休ませて頂いとったに違いない。けど金光様はお祭りを済まれてからでも、すぐ、ああいう大きなお祭りを仕えられてその後でも、もうお広前に出られてもらうとちゃんと又、おしょうどくから(?)替えられて、御結界に奉仕になっておられる。それはその点、これからは一つもかなえに言われんでも、そういう一つおかげを頂きたいなと夜に思わしてもらおうと、ね。
 私はこりゃー本当におかげを頂くまではね、そういう一つの精進が、ね、一向な精進の心がいると思うのです。私はそれこそ(?)と言われる、水尾の、大阪の水尾教会の宮田先生が仰っておられる事の中に、分からないような事がいくつもあるんですけれども、まあーそれには聞いた事がないから、そういう意味合いで、まあ、お言葉をならす水尾独特のお言葉がありながらその中に、「なんでもの願い」というのがあります。「なんでもの願い」、どういう意味なのだろうかと。こりゃーなんでもお願いして、お願いして、お願いしぬく事だろうかと。なるほどそうでもあろうけれども、今日私は改めてその「何でもの願い」という事が、こういう事ではなかろうかと思わせて頂いた事は、ね。
 例えば自分の、おおー栄養なら栄養を考える時にです、あれは食べん、これは好かんというておったら、栄養が片寄ります。そこで「何でもの願い」という事は、目の前に出されたものならば、もう何でも頂くという事だと今日は思わせて頂いた。まあどこまでが神意か分かりませんけれども、なんでんかんでんお願いするだけなら誰でん願う。けれども、何でもかんでも頂くというのが、私は「何でもの願い」の神意ではなかろうかというように思わせてもらいました。あちらの、ううん、先生がお話になった話、あの、ええー読ませてもらうともう必ずもう出てくるんです、「何でもの願い」という事。だから自分の身の上の事何なりとも願えと教祖様がおっしゃれた。実意を持って願えとおっしゃる。だから実意を持ってなら何でんねごうたっちゃええ、何でんねごわにゃならんというふうに頂いておりましたけれども、私は「何でもの願い」というのは、何でも元気な心で合掌して、受けて、受けて、受けぬくぞという事だと思わせて頂いた。だからその「何でもの願い」が、頂けれる元気な心を頂かせて頂く意味合いにおいてもです、今日皆さんに聞いて頂いておる81節である、ね。
 やれやれもう十里の坂を九里半登ったからもう後は(つかん?)、もうおかげはそこに見えたと、やれやれ安心といったような事ではなくて、御大祭が終わった、ああーこれでやれやれ安心といったような事ではなくて、ね。そこをもう一遍黒衣に替えて御結界に、お広前へ出てくるというような心持がです、ね。次の楽な道というか、ね、峠を越えて向こうと言うたら必ず峠を越えた向こうは、下り坂に違いはない。だから汗水流して登らんならんという事ではなくて、ね、向こうへ下りる、向こうへ下りるまでの信心というのは、もうただ有り難くて、もったいなくてと言うような信心だと、おかげだと思います。
 そこを頂くためにはです、例えば夕べの御礼神話会にです、ね。もうあういうお祭りを頂いて、ね、帰らせて頂いたんだから、ね。もう一年中のことも、まあ言うなら無行息災の事もねごうた、交通安全の事もねごうた、ね。だからもうそれでやれやれ安心というのではなくて、ね。その晩一月間の御礼神話会にやはり出てこらせて頂く。その辺のところに、ね、80を一つ越えた81節があり、9里半の山道、坂道を十里を、の峠を向こうへ一歩降りる方へ頂いたという事になるのではないでしょうか、ね。それを、なら申しますならばです、ね、私がお祭りを仕え終わった、汗じゅっくりなっとったからシャワーをかかって、もうやれやれ湯上りに着替えようとしたらかなえが黒衣を持ってきた。(俺もう?)湯上り気で休もうと思いよるところからっち。そげなん事がありますもんかいか、金光様は御大祭が済まれたら、すぐ御結界につきなされますよっち。なるほどかなえが言う通り、ね。私は湯上りに着替えておったら、十里の坂を九里半のところでやめて、やれやれと、あとはもうだらだらと、だから下へ下りてしまう訳です、ね。そこん所をもう一気張りさせて頂く向こうに、言うならば広がりに広がる。限りないおかげの頂ける第一歩を、踏み記した事になるのです、ね。
 いよいよ今日から夏期信行が始まります。もう朝の御祈念にお参りをしたけんで、もう昼の信行には加わらんでもよかと、いやもうそれに、昼ももしお参り出来んけんで朝参りをご無礼してから、言うなら一時からの言わいる夏期信行に参加させてもらおう。というたら、そんならいっちょん修行が修行にならないじゃないかと言う事になります。ね、朝の御祈念は朝の御祈念。もうこれは日々の事だとしてです、7月一杯、もうこの、言うならば夏期信行に掛させてもらうという人ならばです、やはり一時の御祈念に又出て来る事でしょう。その辺が私は信心の大事なところだと思うのです。
 この夏期信行にはどういう事に掛けさせてもらおうかと、今日私思わせて頂いたら、「松岡吉田?」と頂いた。福岡の壮年部長でありますところの松岡さんですね。いつも御大祭の時に(紋付き?)袴を付けてから、あの、お初おのところのかかえにおられる、あのおじいさんが、ああーおじいさんというても、もまあそれでもやっぱ70ぐらいですからね。若くしておられますけれども。松岡吉田、しかもその吉田の田というのを、だけを大きく頂いた。
 ははあ、今月の、言うならば信行の焦点はここに置くんだなと。いよいよ太る事だと、ね。いよいよ太る事。言わば、あのず太いという事を申します、ね。神経がこまいという事がいけないという事ではありません。細かいとこに気が付くというような事は素晴らしい事です。だからそういう人を信心によって度胸が出来る。そういう人が信心によって、それこそず太いまでの心の太さが出来る時、本当に恩に叶うのだと思います。どっちかというと私も非常に神経が小さいです。もう本当にもうーそれこそ自分で思いよった。もうこんな小さい事でくよくよしてと。気にかかって気にかかってしょうがない、ね。それを例えば、んんなら、土台な気持ちで大きくというのではありません、ね。
 昨日も聞いて頂きましたように、夜中に、夜中というか最後の御祈念をさせて頂いて帰ったけれども、なんか心に引っかかるものがある。それが又出て来た。出て来たら、そのとたんに頂いたのが三隋辺に定まるという事であった。私の心の中にひっかかっておるのが昼あういうふうにお取次させて頂いたが、あれがだいたいどういう事になるのだろうかと心にちょっと不安、心配、言うなら心にひっかかっておった。けれども三隋に定まるという、このよどというよど菊ですね。よど菊のよどという字を頂いて、ね、もうそれこそ右になろうが左になろうが全てが三隋辺だと。自然に起きてくる神様のお恵みに間違えないのだと。っと心が定まった時に心に引っかかるものがなくなった。あくる日は、はあーこういうおかげを頂く事のためだったんだと分かるほどしのおかげになって来た、ね。
 だから神経が小さいからです、言わば失敗がないです、ね。細かに神経を使うという事は素晴らしいけども、そういう、なら神経の小さい人がです、信心によって度胸が出来る。信心度胸、ね。そこに枠から見ると、それこそず太いまでの心の、が、そら、そらわって来る、ね。だからその太い心というか、ね。その太い心を頂く事のためにです、私共がなら今日の御理解じゃないけれども、十里の坂を九里半登ってやれやれと言ったような心の状態では度胸が生まれません、ね。十里の坂を、ね、登り越えて向こうへ一歩しるした時にです、そういう修行がやはり越えられた時にです、まあ言うならば矢でも鉄砲でも持ってこいというような度胸が生まれて来ます。ままよという、ず太いまでの心の状態が開けてまいります。
 今月7月に、の一日から、ね、一月間、ね、心行を、言わいる夏期心行に入らせて頂きますが、ね、自分の心がいよいよ、ね、ず太いまでの心のお繰り合わせを頂き、お育てを頂く事に一つ焦点を置こう。小さい事?だったら、ああー細か、細かという位の信心になろうと。お父さんどうしますか、こげんな問題が起こっておる。ああーおかげになるがと。っと言えれる信心になろうと、ね。だから、なろうと言うてなれるもんじゃない。そこに内容が修行になかならいかん。その内容の修行というのが、ね、ええーお祭りの済んだけん、もうやれやれいっぷくと言ったような事からは生まれない。それからその先を、その十里の坂を向こうへ一歩、下り坂の方へ記した時に始めて、ね、向こうへ下りたら安心じゃという安心な道を下るのは、もう登りの坂を登る時のようにきつい事じゃない。後は楽に向こうへ下りる事ができる、限りないおかげに一歩足を踏み記す事になるのです。
 本気で、言わいる限りないおかげを頂く事のための、お互い、これは心がけなんです。昨日お祭りを済み、済んで、裸になっとるところへ今日、今申します松岡さんが(?)の方へみえられました。(?)へずっーと座ってから、ああーどちらさんかと思ったら、先生改まってお届けがございますと。まあそんならちょっとまあ、私、あのお風呂入ろうとしよりましたから、ちょっと食堂へ行って食堂で、まあ(?)ながらちょっと話をさせて頂いたんですけれども、今度、あのーううん、福岡の(唐人町?)におられます。ええー食堂を経営しておられる。その道路が、はばが今度広くなりまして、町の方からそこを買い上げになられる。、市、市の方から。それで、全部家がかかるわけです。それでそれだけ後にいたって、今度3回建ての、おおー立派な食堂ができる事になっております。ところが市との、おおー公証がなかなか暇がいって、半年もかかったでしょうか。もうそれこそ、おおーせっしょうにせっしょう、おおー公証に公証を重ねられて、ようやく定まった。半年前に、どこどこ建設に頼んでおられた時と2000何百万か、で、あのー受け合わせる事しておられたところが、半年の間に日本のきざいが上がった。それでどうしても200何十万という、そのーまあ300万近くの、おおー値上がりが出来て来た、ね。それこそ市から、ああーもらうお金だけで建て直ししてもらおうと思っておったのが出来なくなった。何百万と言う事から買ってこれんごつなって来た。そこにそげなこつならどんこん出来ん、ちょっと待ってくれ、私(?)にする所があるけんでんと、ね。言う訳で、ええーまあ昨日お参りをして、お伺いをしたから腹を決めると言う事であった、ね。
 だからそりゃー300万なら300万という金が足りなくなるのだけれども、ここは松岡さん、あんたが腹を決めるとお繰り合わせ頂くがと私申しました、ね。おかげ頂こうという気になったらちゃんとおかげは頂くよと。けれども(?)ではいかん、ね。神様に始めからお取次ぎを頂いての事であるし、市との公証が出なくなったために、なるほど機材がどんどん上がっていきよる。向こうが言うのも、なるほど向こうが出なかったら、それだけ向こうは赤字になるじゃろうもん。そういう事では向こうにも気の毒なんです。もうギリギリ切り詰めて、勉強させてもろうて、300万上がったとこう言うのであるから、ね。それであんたが腹を決めてです、ならおかげを頂こうという腹を決めれば、300万のところのお繰り合わせは、ちゃんと又何かの形でおかげを頂くよと。っと、まあ申しましたから、ね。先生のその一言を聞いて腹が決まりましたと。ならさっそく、まあ仕事にかかって頂こうと言うて、昨日そういうお取次ぎをお祭り後にさせてもろうてから、今日頂くのは、その松岡吉田である。
 又は、なら今月の、言うなら一月間の修行の焦点が、その太いという、太くなろうという事、ね。ならその松岡さんが昨日感じられた、よし、300万円がた一回り大きくなろうと。買えなかったばってん、一つもう神様にお任せして一つそれをやろうという気になろうと。これが太くなる事です、ね。だからその太くなる時がです、ね、本気で修行が出来ておる時なからければ、そういう太くなれんのです。有難う言うた、彼がこう言うた、もう小さな事に心を、ね、つこうたり、しんとしたり、不安になったり、ね、いらいらしたりする事にあります。痩せきれた人が、いかに力んだところで力はつきやしません。まず力を頂くためには、太らなきゃいけません、ね。そのために例えば相撲取りになんかは、もうとにかく器一杯ご飯を頂くそうです、ね。もうそれこそたまがるように頂くわけです。それこそ何でもの願いであると。もうそれこそあのちゃんこ鍋というのは、もうそれこそどげなんもんでん入っとるそうですよ。そん中からこれは食べごとなか、これは好かんっち言って寄せよったら、ですね、ええーその相撲取りになる資格はない。もうどういうもんが入っとってもそれを、しかも腹一杯頂く。だからお腹が大きくなるわけです。体が出来るわけです。肉付きが良くなるわけです。それできたえるから、あの言うならば、以上までの力が出来るのです、ね。痩せきれとるのがいくら頑張ったっちゃ力は付きやしません。まず太れと、それからきたわれる。そして力が付くのです。
 今月の焦点、言うならば、修行の心をです、まず太くなるという事。それにはね、何でもの願いにたつことであると。何でも頂こうという気になる事である。昨日、千恵子さんがお届けをしていました。それは、伊藤さんがお夢を頂いた。それはね、もう自分の周りに蛇がうろうろしよると。それで、もう伊藤さんは怖いもんだから、その蛇から逃れようと思うて一生懸命、その逃れようとしておる。そしたら善導寺の原さんですね、原のおばしゃまが来てから、もういかにも楽しゅしてこたえんっちゆうくらい蛇を、こうやって処理しておられるところを頂いたと。蛇という事は、家のめぐりと言われております、ね。めぐりが出てくる、その言うならば難儀な問題とか、いやな事やらはね、だから最近伊藤さんの信心のしんきょというのは、もう本当に目覚しい進展をとげております。本当に信心に専念すると、こういう素晴らしい事が分かるだろうかと言うような事が分かって行きよります。
 ところがどっこい実験にまだとぼしい、体験がとぼしい。そういう意味で(?)さんなんか何十年間という様様な難儀をです、これはめぐりの現れだとしてです、それを一つ一つを処理してこられた。そしてこのめぐりのごたる、いやと思うけれどもこれを有り難く頂くところに、次は力が受けられる事がよう体験しておられるから、それこそいかにもニコニコとそのへびの処理をしていかれるところを頂かれたというお届けがありました、ね。だから信心が分かったというだけではなくて、分かった事が体験できられて始めて本当のものになるとです。頭の(?)伊藤さんにはかなわんかもしれんけれども、実力の点でなら原さんは素晴らしい、言うならめぐりをめぐりとも思わず、それを神愛として受けていかれておるという状態であります、ね。
 そういう例えばめぐりでも頂こうという気にならなければ、お腹は大きゅうならない。だから何でもの願いであります。どういう事が起こってこうがです、どういうめぐりが出てこうがです、それを合掌して受けぬいていこうという生き方からしか、ね、言わば太り育つという事はありえません、ね。まず太らなきゃいけません。今月はどうでも太らせて頂く事のために、ね1時からの、言わいる夏期信行、夏の修行をそこの、に焦点を置いて松岡吉田であります、ね。松岡という事も、言うならば夏の今日の十里の坂道をという事に繋がるでしょう、ね。言わいる松という事は合楽の信心という事でしょう。この丘を、この坂を登りきって、ね、十里の坂を登りきった時に向こうは必ずダラダラ坂になっておるはずですから、楽になります。楽になるところまでお互い信心させてもらおう、ね。
 そういう、言わば信心をです、させて頂いてそれこそ何でもという願いというか、いきよいが出てまいりません、ね。九里半登って、言うなら御大祭が済んだ、やれやれと言ったような信心では後はダラダラと後へ又戻るだけ。向こうへ越えて、始めて安心じゃとおっしゃる。向こうへ越えるその第一歩が大事である、ね。どうぞ松岡吉田、それから、なら伊藤さんがお夢を頂いたという、ね、めぐりから逃げ回ろうとしておる。 理屈では分かっておる、けれども実際そこにいやなもんが出てくると、それから逃れようとする。ではなくて、それが楽しゅう、それこそ嬉しゅう、それが処理出来れるくらいの受けていけれるくらいな信心を頂くためにです、ね、九里半の所からもう一歩前進させてもろうて、峠を目指して進んで行くというような修行生心からしか生まれてこない、ね。
 松岡さんじゃないけれども、なるほど、ね、つゆ?一杯の事でお願いをしておった建設屋さんにです、ね、300万上がったというてもです、ね。それで、言わばさあどうしようかと迷っておったんじゃでけん、それでもやらなでけんからと言うて迷いを持ってしよったら、300万円は足らん事になるでしょうけれども、ね。こういう神様の御都合だとしてです、ね、やろうという腹が決まればサッとおかげは頂くというおかげにも繋がってくるのです、ね。今日は、ええー81節を聞いて頂いた。8という字は、ね、広がりに広がるという事。10という事はプラスという事、ね。広がりに広がる、言わいるプラスしていくその第一歩は、ね、十里の坂を九里半登ってヤレヤレではなくて、その後半日のところを登りきって峠に立たせてもろうて、向こうに一歩下り坂の方へ足を踏み入れた時にです、始めて広がりに広がるおかげの世界がそこから開けてくる。そこを下りていくという事は、もうそんなにきつい事ではない。坂を登っておる時はきつかったけれども、向こうの方はもう下り坂である。そこに楽しい、有り難いという信心があるわけですよね。どうぞ。